アナ雪2はステマで炎上していい作品ではなかった

こうタイトルをつけたがステマで炎上していいも悪いもあるわけではない。以下ネタバレ。

 

エルサとアナ

相当朧げであるが、前作はエルサの生きづらさからの解放を妹であるアナとの対比によって描いたものだったように記憶している。2では姉妹の絆がベースにしてエルサとアナのそれぞれの自立したテーマになっていた。

エルサのアイデンティティ希求

エルサのアイデンティティ希求とアナの正義が自立したテーマとして描かれている。

エルサは特殊な能力を持つ他人と違うことに悩んでいた。環境の変化を望んではいないものの、自分だけに聞こえている声の謎を解明すれば、他人とは違う「理由」を得られるのではないかとの期待もあった。エルサが漠然と不安を感じてたのは自分のアイデンティティを定義できなかったからではないかと思う。

エルサがアナに内密にしたまま謎の声を追ったことをアナは責めたが、エルサはアナを心配させたくないという気持ちがありつつも声の主を知りたい衝動に駆られたのだろう。これまでにエルサはLet it goといって自分の思うままに生きようと自己を解放させるフェーズも通りはしたが、最終的には女王という枠に収まっており、元来の性格から自身の感情などが後回しになることも多かったのではないかと思う。そういった中での本作での「自分の原点を知っているかもしれない何者か」の登場であり、空耳で済ませることはできなかったのだろう。

 アナの正義

アレンデールとノーサルドラはエルサとアナの祖父の代で争った過去があるが、アナたちの父親の話によると「どちらが先制したかはわからないが気付いたら戦闘が発生していた」「相手が先に攻撃してきたとアレンデール兵が言っていた」というものだった。あの状況でノーサルドラが攻撃してきたと断定しなかったアナたちの父親は素晴らしいと思うが、アナやエルサの認識としては「アレンデールはノーサルドラに贈り物もしてこちらから攻撃をする理由もないのになぜ戦闘が発生したのか」といったものだったのだろう。

アナは祖父の過去の行いについてショックを受けつつも、事実を否定することなく受け止めた。そして侵略・支配(しようとした過去)の象徴を破壊しようとする。

正義とは大義名分ではなく、成すべきことを自分のできることから実行していくというのがその本質なのである。自分にできることからといってアレンデールを代償にしてダムを破壊してしまえるアナは非常に勇敢でありかつ自分の行動によって他人を動かすことができるという自身に満ち溢れたキャラクターだ。アレンデールの国土が犠牲になることを認識しており、また、ダム破壊行動がアレンデール兵に知られれば制止されることは自明であったにもかかわらず、一人で決め一人で実行に移したアナは本当に強い心を持っている。

アレンデールとノーサルドラは典型的な支配国と原住民の関係である。支配国側の「相手を信用できない」という漠然とした恐怖にどうにかして理由付けを行い、開発援助の名目でインフラに手を入れるというのは現実に行われてきたことである。

自他境界

今が幸せ、変化を求めない、と歌い普段は保守的な態度を取るエルサが危険を顧みず「Into the Unkrown」しようとする一方、挑戦することを恐れず常に前進しているアナは渦中に飛び込もうとするエルサを一瞬引き留める。アナはエルサの成したいことやその意志を認めた上で、エルサを失いたくないアナ自身の気持ちを主張する。エルサの意志はエルサのものであることを理解しているアナはエルサができるだけ危険を避けられるように手伝うことが最適解だとあの短い間で理解した。前作に引き続き姉妹での性格や行動の対比がわかりやすく描かれている上、結局エルサはアナを突き放してしまったが、アナの発言は自身と他者の主張が相反したときの解決方法は相手をやりこめて自身の主張に従わせることだけではないと示している。

人の気持ちや考えはその本人のものであり、他者が定義づけられるものではない。(言うまでもなく、他者の尊厳を侵害するような主張を行ってはいけないという大前提も念頭に置いておかなければならない。)

マイノリティとマジョリティ

アナ雪をはじめ近年のディズニー作品は、手放しで称賛できない部分も当然存在するが、マイノリティの表現についてよく考えられていると感じる。マイノリティをマジョリティを二項対立で語ることは雑だが、ディズニーは簡略化してストーリーに落とし込むことで子どもにも理解しやすいようにしているようだ。

対立している他者とどう向き合うか

エルサやアナたちのが魔法の森に迷い込んだシーンでは、ファンタジーのモチーフにもよく使われてきた四元素を使って極めてシンプルに他者との相互理解や他者の尊重についてが提示されていた。

風:オラフに対しての行為にあまり攻撃性はなく、風の精霊は元々人間への反発心は大きくはなかったのかもしれない。オラフが人間ではないために架け橋となりえたということもあるが、ここで重要なのは、好意を見せることにより敵意はないという意思表示をしたことだ。

火:火の精霊は自己防衛の気持ちが強いことから3排他的・攻撃的になっており、警戒心が強かった。そういった相手に歩み寄るのにエルサは、精霊自身ではなく精霊の持つ火の力に対抗していたことを示した上で、犠牲を覚悟しつつも精霊自身に危害は加えない姿勢を示した。

地:風や火の精霊と同様に「仲間」になろうとして地の精霊と争う姿勢を見せるエルサをアナは「今はそのときではない」「目的は他にある」と諭す。他者との結束や和解はそれ自体が目的ではなく手段である場合もあり、手段である場合に本来の目的を見失わずその手段を回避することもまた重要である。

水:自分の持っている性質と同じことに気付いて「共闘」した。お互いに力を以て相手を制そうとしている内にお互いが同属だということに気が付いた。同属だからといって必ずしも仲間になれるわけではないが、互いの

風や火の精霊に対してはエルサがその力を持って圧倒したという要素もあるため、全てが対立する他者との向き合い方の提示になっているわけではない。しかし、目的を達成するために他者と手を取り合うことのヒントにはなっている。

マジョリティの無自覚性

エルサは魔法を遣う者としてアレンデール国内ではマイノリティである。しかしその一方で、ノーサルドラとアレンデール兵が登場した際にアレンデール側として「森を解放するよう助力したい」と言ったエルサの態度は、その時点でエルサは正確な歴史を知らなかった故のものだろうが、マジョリティの傲慢さも伺える。アレンデール兵を背に対話を求めてきたエルサは、ノーサルドラからすると味方には見えなかっただろう。

ディズニーが意図して描いたかは不明だが、「マジョリティの無自覚性」が表れていたのではないだろうか。

日本におけるアナ雪

近年のディズニー作品の例に漏れずアナ雪2も多数のメッセージが織り込まれていた。では、多くの人たちはその文脈を理解できているのだろうか。

アナと雪の女王」というタイトル

映画館で字幕で観て初めて原題が「Frozen」及び「FrozenⅡ」であることを知ったが、邦題はFrozenⅡのテーマを理解していないように思う。「雪の女王」としてエルサをステータスや役割でラベリングし、エルサ個人に焦点を合わせていない。無印ではエルサが生きづらさの解放から雪の女王として承認されるまでが描かれていたので「アナと雪の女王」でもまだ納得の余地はあったが、今回の2ではエルサとアナがそれぞれ自立したキャラクターとして描かれその個人に焦点がある以上、タイトル的な魅力は置いておいて、適切ところで「エルサとアナ」だろう。

原題がそうなので邦題も同様に前作からナンバリングするしかなかったことは理解できる。前作の時点で本作の制作が決まっていなかったとはいえ既に読み違えていたのであろう。

 「レリゴーという記号」

上映の後、こんな感想が聞こえてきた。

「やっぱりレリゴーを超えられるものはないでしょ」

実際日本ではそうだと思う。人々が行列に嬉々として並ぶ日本では「レリゴー」を超えられるものはないと思う。(私はLet It Goがめちゃくちゃ好きだし、個々がどのようにLet It Goを好きかというのは私がジャッジしてよい・できるものではない。)

「レリゴー」はキャッチーなメロディーラインと相俟って子どもたちの耳に馴染がよく、また、大人たちの間でも拡散し、誰もが知っている話題として共有された。アナ雪は「レリゴー」としてわかりやすく記号化されたのだ。それは毎年一発屋と呼ばれる芸人が新しく流行するのと同じ構造でしかないが、特に意味はなくても簡単に口にして共有できる単語を好むのは日本人の特性なのだろうか。

www.huffingtonpost.jp

一般に子ども向けと言われるキャラクターものや特撮などが大人の間でも話題になると、大人向け作品だと言い始める人が出てくる。複雑な人間関係や規範に縛られないストーリーは大人向けか?いや、子どもにこそ観てほしい。すみっコぐらしの映画のときもそうだったが、非常によくできた映画を「大人向け」といって子どもから奪うな。キャッチ―なメロディーやフレーズがあるものだけを子ども向けと言うな。アナ雪2は全人類向け映画だ。

結局はラブでしょ

理不尽な事件が続いたり「正義」が迷走したりしている2019年の日本で放映されたことに大きな意義があると感じた。(2019年の筆者にとても刺さった。) ステマで炎上しているのがただただ悲しい。結局ウォルトディズニージャパンが出したのは謝っていない謝罪だった。本国のスタッフがこれ以上ないほどに質の良く多くの人々の心に届くような作品を完成させたのに、日本のプロモーション関係者は何をやっているのか。
「時とともに変わってしまうことは多いけれど愛だけは変わらない」とオラフが言っていたが、まさに今大切なのは相手のことを思いやる気持ちなのである。46億年LOVE(ダイマ)。

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